それから

ちょいと読んでかない?30代、心に響く本や音楽、その他のコト

正直しんどい

職場で男女の出逢いというものが一切望めないので、二、三年くらい前から俗に言うマッチングアプリというものを利用している。メッセージをやりとりした人は数知れず。100人は確実に超えているだろう。一回だけ会った人はその内30〜40人くらいだろうか。お付き合いまでいったのは1人。正確に数を数えていないので付き合った人数以外は体感なのが悔しい。データをとっておくべきだった……。何のためにと言われたらわからんのだけど。


一回だけ(中には二回以上)会った人の中には外国人も4人いて、その人数なら正確に思い出すことができる。

オーストラリア人……2人
サウジアラビア人……1人
イタリア人……1人

特にものすごく外国の人とお付き合いをしたいわけではなく、良いなと思った人がたまたま外国人だったのでお会いしただけだ(なんだこの不倫みたいな言い方は)。
もちろんみんな日本に住んでいてレベルの差はあれど日本語が理解できる人たちだったので、コミュニケーションに不便は感じなかった。何ならイタリア人とは英語でLINEのやりとりをしていた。私がGoogle翻訳で送る英文で充分意志の疎通はできているようだった。そりゃネイティブから見れば変な英語だったのかもしれないが。メッセージで大事なのは文法よりもテンションが伝わるかどうかだと思う。「俺はテクニックではなく、アティテュードで歌うんだ」byリアム・ギャラガー


彼らと交流してみて感じたのは、日本人男性との差を感じることはほとんどなかった、ということだ。彼らが日本在住だというのももちろん無関係ではないとは思うが、殊更レディ・ファーストかと言われるとそうでもないし、食事代を奢ってくれる人もいればきっちり割り勘にする人もいて、当たり前だけどみんな性格はバラバラだった。一人の男性として自分と合うか合わないか、ただそれだけだ。


しかしこれだけ色んな人に会っても結婚相手が見つからないとなると、「101回目のプロポーズ」の武田鉄矢のことを笑えなくなってくる。もう長距離トラックの前に飛び出すしかないのか。そうなのか。
良く就職活動と結婚は似ているなんて言うけれど、私に言わせると結婚の方が遥かに難しい。どうしてこんなに難しいことを誰もどうやってクリアするか教えてくれないんだ。「This is a pan.」なんて使えない英語を教えるよりそっちの攻略法を教えるべきだろ。そのくせ誰もが歳を重ねた独身の他人を見ると、「あの人はどこかおかしい」と言い出す。他の国じゃどうか知らないけど、少なくともこの日本では。もしどこの国に行ってもそう言われるんだとしたらこの世界は正直しんどいな。

普通ってなんだろね

少し前に映画「花束みたいな恋をした」を見たのだけど、主役の男女が思い合ってたのにすれ違っていく辛さとかそういうのより何より、いちばん心に刺さったのは、麦くん(菅田将暉)が大好きだった本とか読まなくなってパズドラしかする気力がなくなってく様だったりする。いまの自分の気分も結構それに近くて、小説を読んでわくわくするより好きなYouTuberの生配信をながら視聴してる時の方が楽しい。コロナ禍になって美術館に行くことも滅多になくなったし、音楽はサブスクでなんとなく気になったものをつまむ感じ。何かの芸術作品にじっくり向き合ってるっていう感じが昔より断然減ってしまった。別にそれでも何不自由なく生きていけるし、仕事に忙殺されてそれどころじゃないってのもある(という言い訳)


このままじゃなんとなくあかんなーと思って何年振りかに近所の図書館に行ってみた。貸し出しカードを司書さんに出すと、「しばらく使われてなかったのでデータが消えてますね。再発行が必要です」って言われる。そうか。そうなのか。図書館からも存在が消えるほど本を読んでいなかったらしい。再発行してもらって村田沙耶香の「コンビニ人間」を借りる。読みやすくて数時間で読み終わる。面白かった。普通ってなんだろね、と考える。ゴールデンウィークは今書いている小説の筆がかなり進んだので気分がいい。


普通の日記を普通に書くというのは意外に難しくて、それに挑戦してみた。ブログってルールとかないんだしもっと気軽に純粋に毎日あった素朴なこととか書いていいんだろうけどなんだかそれができない性分だったりする。真面目か。とりあえず、今日も健康に一日を終えられそうなことに感謝。

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

花束みたいな恋をした

花束みたいな恋をした

何かに縛られて生きるーー「ノマドランド」

searchlightpictures.jp
映画「ノマドランド」を観た。昨年、ベネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞し、さらには本年度のアカデミー作品賞・監督賞・主演女優賞の三冠を達成した作品だ。
リーマンショックにより住む家と夫を失った高齢女性・ファーンが、キャンピングカーに乗って車上生活を送る様を描いたロードームービー。

 * * *

私の家は兼業農家で、子どもの頃から旅行というものをしない家庭だった。作物の世話があるので、長期間家を空けることができないのだ。週末になれば祖父と父は田畑で農作業をし、母は家で焼き物の内職をしていた。
だからだろうか、大人になった今でも私はあまり旅行や外出を好まない。どこか新しい場所に出かけることを億劫だと思う節がある。家についてもそれは同じで、今のマンションは住み始めてもう6年以上になる。買い物をするのは大体決まった店、頼むメニューも同じもの、会う人も決まっている。“ノマド”とは真逆の生活である。


でもなぜだろう、私はこの映画を見て主人公の女性ファーンにとても共感した。国籍も、年齢も、生活様式もまったく違うファーンという女性に、自分を重ね合わせていた。
たぶん、私たちの共通点は“孤独”であるということだ。
屋根の下で暮らすか暮らさないかに関わらず、私もファーンも、たぶん愛というものに飢え、それを畏怖している。


昔付き合っていた人にこう言われたことがあった(前に何かの記事でも書いたかもしれない)、「幸せになろうとすると、自らそれを壊そうとする癖があるよね」と。それを訊いた時私は、何を知ったような口を、と思ったけれど、あながち間違ってはいないのかもしれないと今は思う。そしてそれは、ファーンが途中、仲良くなった男性から、「一緒に屋根の下で住まないか」と言われた時の心情と似ているような気がした。彼女が彼に別れの言葉も告げずに翌朝急いで自分のキャンピングカーを走らせるシーンは、ファーンの愛への向き合い方を如実に表していると思った。


この作品のすごいところは、“ノマド”という行動様式の形を鮮やかに浮かび上がらせながらも、それだけにとどまらない孤独や愛の本質を突いているところだ。だからこそ、国籍も年齢もまったく違う、むしろノマドとはいちばん遠いところにいる私に刺さったのだと断言できる。ファーンは自由に見えているようで、本当は夫との思い出に縛られていた。それは形は違えど、過去の思い出によってこの世界に対して生きにくさを感じている私とあまり違わない気がしたのだ。


ラストシーンで彼女は思い出から解き放たれることが出来たのだろうか。私にはわからなかった。劇中にこんな言葉がある。

「『さよなら』がない。だからノマドがいい」

人生に自ら「さよなら」を言うことはできない。だから私たちはこれからもこの人生を放浪していくしかないのだ。